私の話を誰が聴いているのか
誰に向かって紹介するのかで言葉は変わる
ビブリオバトルは自分の好きな本を紹介する。
そのとき、紹介の言葉は同じ場を共有している誰かに向かって語られる。
4〜6人で実施するコミュニティ型と呼ばれるビブリオバトルでは、自分の声を届ける全員の顔が見えてくる。
言葉を伝えたい人が目の前にいる。
イベント型と呼ばれる規模の大きなビブリオバトルでは、話している自分からは把握できないところに座っている聴衆にも言葉が届くことになる。
姿ははっきりとは把握できないけれど、自分の話を聴いてくれている人が集団として目の前に現れてくる。
その会場に集ってくれている人の姿は見える。
オンライン開催の大会だと、自分の言葉を聴いてくれている人の顔がますます見えてこない。
けれども視聴者数やウェブに記録される感想コメントという形で反応がある、というところがオンライン形式の大会のおもしろさでもあり、バトラー側からすれば反応が見えづらいところでもある。
ビブリオバトルは規模が大きくなるにしたがって、本についての自分の言葉を伝えるとことがより遠くまで届くようになるということだけれど、実際に自分の話を聴いてくれる人が目の前から見えづらくなってしまうということでもある。
小規模開催だと目の前にいる具体的な「誰か」に向かっての言葉になるところが、大規模開催になると特定の「誰か」の姿はなかなか見えてこない。
私たちは普段から誰が自分の話を聴いてくれるかによって、言葉づかいを変えている。
具体的な「誰か」に向かって自分の言葉を発することと、人前で特定の「誰か」がわからない状態で言葉を発するときでは、自分のなかから出てくる(選ばれる)言葉が変わってくる。
ビブリオバトルは「自分の好きな本、おもしろいと思った本」を自由に紹介する機会ではあるけれど、「誰が話を聴いてくれているのか」も自分の本選びや言葉選びにかかわる重要な要素になっている。
発表の記録が残ることが分かっているとき
そしてまた、大会形式のビブリオバトルでは、発表者と紹介本がセットで記録に残されることも多い。
となると、そもそも「どういう本を選ぶのか」というところも、ビブリオバトルの開催規模によって影響が出てくるだろう。
小規模の仲間内で気軽に実施するときに選ぶ本は気軽に選びやすい。
自分も選ぶし、ほかの人も本を選んで参加してくる。
件はみな同じになっている。
普段の活動での発表記録をブログなどにまとめているビブリオバトルの団体もあるけれど、発表者個人の名前を表に出すことはせず、紹介された本だけを記録としてまとめていることが多い。
けれども大会形式の場合、発表する人と話を聴くだけの人に立場が分かれてしまう。
勝ち上がりということになると、本の選び方に気を遣ってしまう。
ビブリオバトルの大会に参加することは、一方的に評価される側に回るということだし、話を聴いている人数も増えるため、登壇することで大きな注目を浴びる場所に立つことにもなってくる。
そしてたとえば大学生大会も高校生大会も、過去の発表本の記録がまとめられて公式ウェブサイトに公開されている。
そうなると参加することだけではなく、発表後の影響も考えてしまうことになる。
そのときどきで「自分がおもしろいと思った本」の記録が残されていく。
後世にビブリオバトルというゲームが広まっていく様子を知るためには、ビブリオバトルの開催記録を残すことはとても大事なことだと思う。
一方で、あらかじめ「記録に残されることが分かっている」という大規模大会の場合、当たり前のように行っている「記録化」という行為が、何らかの形で本の選び方や紹介の仕方に影響を与えているようにも思えてくる。
「おもしろい本を紹介するビブリオバトル」というところから、「おもしろい本を紹介する私のふるまい」というところも意識せざるを得ない。
記録に残さないからその場限りの機会だからこそ出てくる表現と、記録に残されてしまうからこそ出てくる表現は異なる。
残そうとした言葉と残ってしまった言葉は違う。
自由に本を選び言葉を選んでいるように見えて、不自由さもそこには含まれている。
ここ2年くらいで急激に進んできたオンライン化は、記録が残しやすくなっているともいえるし、発表の仕方や言葉の選び方の点でも、何かしらの影響があるように感じている。
Bib-1グランプリやります
明確にビブリオバトルというゲームを魅せることを意識したイベントが今年から開催されるます。
ビブリオバトル普及委員会のメンバーが東西に分かれて対戦する初めての試み。
いよいよ開催が近くなってきました、今週末の2021年11月6・7日です。
こちらもよろしくお願いいたします。
すでに登録済みの方は こちら