読書会としてのビブリオバトル
図書館も読書会のことを考えている
「図書館法」の第3条6には、以下のような条文が記されている。
読書会、研究会、鑑賞会、映写会、資料展示会等を主催し、及びこれらの開催を奨励すること。
図書館では読書会をすることが想定されている。みんなで集まって本について語り合うことも読書の形のひとつである。ビブリオバトルも読書会の一種として認識されることも多い。ただし、読書会という用語だけでは意味が広く解釈できるため、その言葉からイメージする形態が人によって大きく異なってしまう。どういう仕組みになっているものを読書会と呼ぶのかは、これまでにいろんな人が考えてきていると思う。
たとえば上に書いたように、「図書館法」という法律にも登場する用語なのだけれど、図書館関係者は読書会をどのように考えているだろうか。これは図書館によって、そこで働いている司書の方の考え方によって、その図書館に集ってくる利用者の考え方によって、いろんな方法があると思う。あるいは昨今はさまざまなイベントがオンライン化しているが、直接に会わなくても遠く離れた人であっても本について語り合う時間をつくることができる。
どういう形を読書会と呼ぶのかは、時代によってもそのイメージが変わってきていると思う。
図書館関係者が読書会について語っている本を見かけるし、また、親子読書会という形をとって参加者を集める手法もある。これらは読書運動という動きともつながっている。
いろんな人がいろんな場所で読書会を行う
読書会は歴史的に遡ることもできる。江戸の読書会=会読というものもある。
山本さんがつくり出した猫町倶楽部などは、読書会という形式を実践する上で参考になるところは多いし、その規模や広まり方の点でも注目すべき活動である。
誰かに本を読む習慣をつけてもらい、その人が何か変わっていくことを期待もしてしまう。本について語るということは自分に関するできごとを語ることであり、語るという行為は誰かに話しを聞いてもらうことであり、誰かの話に耳を傾けることでもある。その人に寄り添っていくことである。
私たちは一人では読書会はできない。私は誰かに話しを聞いてほしいのだ。本を読んだら誰かに話しを聞いてほしい。そういう思いが募ってくる。
fuzkueさんが主催している「会話のない読書会」というのもあるけれど、これも「同じ本を読む」という行為を同じ場所で共有している。おもしろい。
同じ本を同じ場所と同じ時間を共有して読む
参加者たちは見知らぬ者同士のまま、「ここにいる全員が今、同じ本を読んでいる」という認識だけが渦を巻く。ただそれだけが、どうしてだか忘れがたい、濃厚かつグルーヴィーな体験に、なれ、という企てです。
読書会の形態はほんとうに多様だ。読書会の先に新しい未来が開けてくる。
読書会の本がでます
ビブリオバトルは誰でも気軽に行うことができますというメッセージを出している。本について語ることは誰にでもできる。ビブリオバトルの普及活動に携わりながら、読んだ本について「語る」ことについて考えている。
そんななかで、読書会の文脈でビブリオバトルについて書いてほしいという原稿依頼を、双子のライオン堂の竹田さんからいただいた。双子のライオン堂のことは随分前からその存在を知っていて、知り合いにも勧められていたのだけれど、なかなかお店を訪れる機会が得られなくて、ようやく訪れることができたのが2020年3月5日(木)の夕方のことだった。
この日、私はビブリオバトルについて語るために「アフター6ジャンクション」というラジオ番組に出ることになって、赤坂を訪れることになったので、その足で出演直前に双子のライオン堂にも訪れてみた。時間も限られていたけれど、お店の棚を拝見して、竹田さんにも自己紹介をして、急いでラジオ番組の打ち合わせに向かった(COVID-19が広まり始めた時期だったので、個人的にはこれが現時点で東京を訪れた最後の機会になっている)。
そしてそれから約1年後の2021年1月21日に、竹田さんからメールが届く。読書会についての本を出すので、ビブリオバトルを読書会の文脈で書いてほしいというご依頼だった。こういう依頼原稿は私としてもありがたい話なので、二つ返事で引き受けることになった。迷うことなく即答でお返事する。
ビブリオバトルでのラジオ出演がなかったら双子のライオン堂は訪れていないので、そうなるとおそらく私に原稿依頼が来ることはなかったと思う。そういうタイミングと経緯で書くことになった短いコラム。
もうじき刊行となる。改めて読書会についてみんなで考える一冊になるのではないかと思っている。
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